ドラ親父・ユウジの一人ゴッツ

Swing&Grooveは一生モノなのである。 ドラ親父のRhythm日記

◆偉大なるartistインタビューMichel Camilo&Horacio El Negro Hernandez…


◆偉大なるartistインタビューMichel Camilo&Horacio El Negro Hernandez…

今日のLessonにて今年のおつとめ終了。

大嫌いな大掃除…そして~後は…KiKiのセッションに…?

古いデータを開けてみたら気になるインタビューメッケ~!
やはり幼い時の環境、音楽を愛する強い気持ちと追求心、
才能、そして出逢いを含めた運…これらは共通項なり~。

人生において強い石と目標を持って、力強く生きる!

オレに足りないモノばかりなり~。

Michel Camiloは大好きなピアニストの一人。
アルバムも10枚以上持ってる。
Horacio El Negro Hernandezも大好きなドラマーの一人、
ともにLatinflavorあふれる御仁…なり~。

☆ピアニスト「Michel Camilo」~

question(以降 Q~)…最新作のワン・モア・ワンスでは初めてビッグ・バンドと演奏されていますね。
もっとラテン風のアレンジをされると思っていましたが、
トラディショナルなビッグ・バンドのアレンジで少し意外に感じましたが、この作品について話してもらえますか?

Camilo
このプロジェクトは…
Danish Radio Big Band (DRBB)がモンマルトル・ジャズ・クラブで、
一緒にコンサートをするのにデンマークのコペンハーゲン僕をに招待してくれたところからスタートしているんだ。

彼らは僕がいつも僕のトリオをミニオーケストラだと書いているのを読んでいたので、
僕はトリオ用の曲を何曲かビッグバンド用に書き直したのだけどこれが大成功で、
その後僕らはヨーロッパやカリブ海をツアーしてまわったんだ。

ニューヨークに帰ってから僕は、
この「ワン・モア・ワンス」の企画をコロンビア・レコード (SONY)のジョージ・バトラー博士に提案したら、
彼もとても気に入ってくれたんだ。

そこで僕は何曲かのスコアを書き直すとともに新曲も書いて僕がニューヨークで捜せるベストのミュージシャンを集め、
リハーサルに入ったんだ。

メンバーも皆チャレンジングな曲に熱意をもってくれて、
CDを聞いてくれれば彼らが僕の曲の細かな所まで楽しんでくれて、
どんなに凄い演奏をしているかはすぐにわかってもらえるはずだよ。

でも僕はこのアルバムが伝統的なビッグ・バンドのものだとは思ったことがないな。
ただ僕はこのタイプの音楽を書く上での本当のテクニック、
それは僕がニューヨークでドン・セベスキーから習ったものなのだけど、
トゥッティ・パッセージ、ブラス・ヴォイシング、シャウト・コーラス、
ユニゾン・ラインなどを使いたかったんだ。

そうして伝統的なテクニックと僕の音楽を混ぜることでこのアルバムをヒップなものにしたかったんだ。
とにかくラテンフレイバーはグルーヴ、モントゥーノ、パーカッション、
シンコペーションなどいたるところに聞けると思うよ。

このアルバムを録ってからニューヨークとカリブで数回コンサートをしたんだけれど、
そのうちの1回はライブ・フィルムを撮っていて、
そのうちにビデオ化できればいいなと思ってるんだ。
バンドの演奏は凄かったし、みんなのソロも燃えてたよ。

Q~あなたの音楽には母国の影響か強いラテンの血が感じられますが、
アメリカに移ってくるまではどんな音楽を聞いたり演奏したりしていたのですか?

Camilo
僕がドミニカ共和国のサント・ドミンゴにいた頃は主にハードバップやフュージョンそれにクラシックを演奏していた。
僕は16歳の時から国立シンフォニー・オーケストラのメンバーだったんだ。
だから僕のラテンの影響というのは79年にニューヨークに移って、
僕のルーツが重要なのだとわかってから出てきだしたんだ。

Q~いつもジャズクラブであたなのプレイを見ると、
独特のスタイルと高度なテクニックに感心させられるのですが、
今のプレイのスタイルというのはどうやって身につけられたのでしょうか?

Camilo
これには2つの側面があるんだ。
最初は僕は9つの時からドミニカ共和国の国立音楽院で学んだこと。
それと第2にニューヨークでジュリアード音楽院の、
ジェイコブ・ラテイナー先生の個人レッスンで全く違うスタイルのピアノのテクニックを学んだことだ。

だからいつも僕は2種類のピアノテクニックを持っているって言っているし、
それぞれの最高だと思う方を使ってその瞬間に僕が聞き、
感じたことを最小限のエネルギーでより簡単に弾いてしまうんだ。

それにオスカー・ピーターソンのインタビューで読んだのだけど、
彼は曲を12のキー全てで練習することで耳を研ぎ澄ますと同時に、
鍵盤のどのポジションでも運指が簡単にできるように慣らしていたんだ。

あとしたことはジョン・コルトレーンやチャーリー・パーカーなどを採譜してそれを両手で弾いてみるんだ。
ホーン奏者のソロを使おうとすることによって指を無理に違った動きができるようにしてしまうんだ。
もちろん、ショパン、バッハ、リスト、ラフマニノフ(訳注:ロシアの作曲家、のち、アメリカで活躍)、
スクリャービン(訳注:ロシアの作曲家)もいい練習になるよ。

クリストフ・フォン・ドホナーニ(訳注:クリーヴランドのオーケストラの指揮者)が書いた本で確か「プロのピアニストの為の練習」

(Exercises for the professional pianist)とかいう題名のもある。
これはコンディションを保つのには最適だね。
最後に空手も助けになってるんだ。

これは心身統一ということを教えてくれた。
難しすぎるとかプレイが不可能だなんて決して考えないことだね。

Q~僕があなたを初めてみたのは83年にニューヨークでフレンチ・トーストでプレイしていた時なのですが、
その頃からずっとアンソニー・ジャクソンとデイブ・ウェックルとは一緒にしていますよね。
あなたとこの2人のトリオは今世界でも最高のピアノ・トリオだと思うのですがこの2人とはどのようにして知り合ったですか?

Camilo
ありがとう。
デイブ・ウェックルはニューヨークの他のバンドでプレイしているのを聞いたことがある、
ピーター・アースキンが推薦してくれたんだよ。
アンソニー・ジャクソンはフレンチ・トーストのオリジナルメンバーだったんだ。
僕はフレンチ・トーストのパーカッショニストだったゴードン・ゴットリブに推薦されたんだ。

そこで僕らは出会いお互いに特別な化学反応みたいなものを感じたんだ。
それに毎週月曜の晩にマンハッタンのアップタウンにあったミケールズというクラブ(訳注:スタッフの本拠地としても有名なクラブ)で

演奏したことでお互いにまるでテレバシーみたいな音楽での会話というものを発展させることができたんだと思うな。

僕らはキングレコードのエレクトリックバードで「フレンチ・トースト」というアルバム出した後に僕自身のセクステットを組みデイブも

アンソニーも一緒に残ってくれたんだ。
そしてついに僕たちは84年にタニア・マリアのオープニングアクトでカーネギーホールでトリオとして出演し、
スタンディングオベーションを得たんだ。

という訳でこのフォーマットで僕の1枚目の「whyNotホワイ・ノット」の中の何曲かや、
その後のSuntonサンタン(イン・トリオ)でもレコーディングしたんだ。

Q~あなたは既にたくさんの凄いミュージシャン達と共演しているので難しい質問かもしれませんが、
今まで一緒にプレイしたことない人で今後共演してみたい人を挙げてください。

Camilo
それは沢山いるよ! 共演したことない人の名前をちょっと挙げるだけでもデニス・チェンバース、
クリスチャン・マクビー、ルイス・ナッシュ、グレッグ・ハッチンソン、
ジェフ・ワッツ、ブライアン・ブレイド、ブランフォード・マルサリス、
マイケル・ブレッカー、エルビン・ジョーンズ、などいくらでもいるよ。

Q~あなたはどんなに難しそうに聞こえる曲を演奏する時でもいつも微笑みながらピアノを弾いていますね。
あなたにとって微笑むこともできない程難しい曲ってどんな曲ですか?

Camilo
え~、そんなことは思いもしなかったな~ そうだな~、
多分ランデブーに入っている「アズ・ワン」がポリリズムが多くて難しいかな?
でもよくわからないなあ。

Q~日本では女性のミシェル・カミロファンが大勢いて、
ジャズクラブでの演奏後はよく若い女性に取り囲まれてしまいますが、
奥さんのサントラさんは何て言ってますか?文句を言われたりしませんか?

Camilo
いいや、彼女は若い女性ファンについて不平を言ったりしないよ。
彼女は他の女性が僕や僕の音楽を好いてくてるのは彼女の趣味がいいからだと思ってるよ。ヒュー ~。

Q~最後の質問ですが、今後のレコーディングやツアーの予定について教えて下さい。

Camilo
TropiJazz/RMMと新しいレコーディングの契約を結んだばかりなんだ。
これはニューヨークのMCA系列のラテンとジャズ専門のレーベルでとてもうまくいっている。
たいていニューヨークのJVCジャズ・フェスティバルでトロビジャズ・イブニングというのがあっていつもソールドアウトしてるよ。
10月末にはスタジオに入って来年97年の春に出す予定の次のアルバムのレコーディングをする予定だ。
それと同じTropiJazz/RMMからこの96年秋にリリースされるパーカッションの名手 Giovanni Hidalgoの「ハンズ・イン・モーション」とい

うプロジェクトにも参加したところだ。

このアルバムは僕としては初めてのピアノとパーカッションのデュオのコラボレーションでとても楽しいものだったよ。
インタビューどうもありがとう。


☆ドラマー「Horacio El Negro Hernandez」
家の中にはいつも音楽が流れてれていたけれど、祖父がやっている音楽は古くてダサく思えたし、
父が聴いていたジャズはクレイジーな音楽としか思えなかった。

僕が夢中になったのは、兄貴がこっそり聴いていたビートルズやロックン・ロールだった。
その後フユージョン・ブームが到来し、
それからジャズを聴くようになった。

当時はまだまだアメリカの音楽は敵国の音楽というコトで演奏する事は好ましい事ではなかった。
キューバはアメリカから90マイルしか離れていないから、こっそり隠れてラジオで聴くことはできるんだよ。

家には楽器がごろごろしていたので、物心つくころから楽器をいじっていたね。
特にパーカッションについては、キューバでは子供の成長に合わせて、
マラカスから始まって、ボンゴ、コンガといった具合に、与えられる楽器が変わる。
僕も2歳から祖父の英才教育を受けた。

そのうちドラムに目覚めて8歳から先生について習い始めたけれど、すごく厳しい先生で長続きしなかった。
それでもバンドは続けていて、14歳のとき、
いわゆるソーシャル・クラブでジャック・ブルース(b,vo)
の曲を演奏中に突然警察につかまり、2週間刑務所に入れられた。
そのあと音楽学校に入ったけど1年で退学させられた。

ドラムの練習に夢中になって、他の歴史や数学の授業を全く受けなかったからだ。
でもドラムとパーカッションに関しては4年間のプログラムを1年で終えてしまった。

15歳を迎える頃には、プロとして4つか5つのバンドで演奏するようになっていた。
政治亡命したんだ。理由を尋ねられたので、
アメリカで演奏したいんだと言ったところ「仕事のない音楽家がアメリカにどれほどいると思うか」と言われ、
イタリアで足止めされてしまった。
で、すでにアメリカに渡っていたパキート・デリヴェラ(AS)に電詰をして助けを求めると、
ディジー・ガレスピー(TP)が僕をドラマーとして雇うというところまで話をまとめてくれた。

ところがビザを中請している途中、ディジーが亡くなってしまい、
この話は消し飛んでしまった。
それで、その後3年間イタリアに留め置かれた。

その間いろいろあったんだけれど、
イタリアからフランスに行き、そこから飛行機に乗ってマイアミに飛び、
そこで亡命申講して認められ、ついにアメリカに渡ることができた。

同じ日にマイアミからニューヨークに飛び、
チック・コリア(p)のドラマーだったジェフ・バラードのアパートに転がり込み、
パキートに電話すると、
「信じられないな。いったいどうやってアメリカに入国したんだ7」と驚かれたよ。

すぐにモンゴ・サンタマリア(Cga)、
ジョー・ザヴィヌル(kb)といった人たちから仕事の依頼が入るようになったけど、
政治亡命者は1年間は海外に出られないので全部断らざるを得なかった。

それでニューヨークで、片っ端からクラブ演奏を始めた。
そうして2年間が過ぎた頃、ようやく正式な滞在許可が下りた。
それからだね、道が体当に開けてきたのは。

…うんうん~勉強になります…がんばろっと~チャンチャン~!

テーマ:音楽のある生活 - ジャンル:音楽

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